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「中津川に住もう!」

中津川市へようこそ!山が近くて川がきれいで水も空気もおいしい

2025年1月末(外国人含)

人口と世帯
人   口 73,410人
男  性
女  性
36,070人
37,340人
世  帯 31,903世帯
中津川市に住もう

2024年故郷能登災害との1年 〜元旦の令和6年能登半島地震〜

中津川に住もうスタッフ 2025年1月15日 水曜日

みなさんこんにちは、ご無沙汰しておりました移住サポーターの大畑です。
2025年となりましたね。本年もよろしくお願いいたします。

2024年は、全くサポーターとしての活動ができませんでした。

能登半島さいはての地「珠洲市」
僕の「故郷」生まれた地。原点の地です。

2024年1月1日 16時10分 マグニチュード7.6
まさに震源地である珠洲市。大津波。地滑り。崩落。火災。とてつもない大隆起大沈下。生埋め。広範囲の大被害。

僕は当時ここ中津川市川上にいて無事でした。
正月明けには母親の顔を見に行こうと思ってました。
地震半年前に親父が亡くなり、母親が1人になっていたから。
けど、それは叶わなくなりました。
ここ中津川市でさえも震度4の揺れ、家から飛び出しました。
テレビには能登半島の文字が。アナウンサーの絶叫が響く。
姪っ子甥っ子が珠洲にいて、姪っ子は実家で、甥っ子は珠洲からUターンの道中であの地震に。
連絡がとれない、生死さえ分からない。

ただわかるのは、想像を超えるとんでもないことが故郷でおきてるんじゃないか。

幸いにも家族は皆怪我もなく無事でした。
地区の避難所への道が絶たれて、大津波警報が出てる海に向かって高台の高校へと母と姪っ子は近隣の人と隆起沈下した道をスマフォの灯を頼りにやっとたどり着いたそうです。
それから過酷な集団避難していた姪っ子が珠洲を脱出できたのは5日後、甥っ子は震災当日パーキングで1夜を明かして、山道を10時間かけて富山へ。
母親も姪っ子と一緒に金沢の姪宅に避難。

僕が震災後初めて珠洲に入ったのは1か月半後の2月18日。
余震もありましたし、現地入りの制限もあり。
実家は、倒壊はしませんでしたが地盤が沈み傾いています。
まずは、崩れた屋根瓦の応急処置の為に。
もちろん水も電気もきていませんでした。
それらが通ったのはそれから数ヶ月後です。

まるで映画のセットのような。
道路も家も山も海も人々も、こんな事がおきるのか、現実なのか。
みなさんは記憶にないとおもいますが、
この地震の半年前にも震度6の地震があったばかりなんです。
まさに地獄。

あの日から長い長い戦いが始まりました。今もまだこの先もそれは続きます。

この中津川市のブログで書くような内容でないかもしれませんが。
どこにでも起きうる災害。
必ずくる地震。
移住を考える人たちが選ぶであろう土地、自然豊かな土地には必ず自然災害の脅威があるということ。
そして、どこかで他人事となっている災害の少ない、地盤が硬い神話を持っているここ岐阜県、中津川市の人。

僕が今中津川市で生きている意味。
故郷が珠洲市であるという意味。
珠洲市から愛知県、そして中津川市にいる僕だからこそ、少しでも伝えられたらと思ってます。
僕自身の声で。

「災害に備える」「防災訓練のほとんどがおざなりイベント」「その地にあった独自の防災でなくてはならない」「災害が起きたらやらなければならない事」「支援という事」「なんとかなるは無い」「耐震の限界」「今やっておくべき事」「避難所の現実」
「国及び自治体からの支援の現実」「移住という意味」「住所を移すという意味はあるのか?誰の為に?」「誤情報、フェイク、陰謀説」「生きる力」「金があっても何もできない」「移住するならこれだけは知らないと後悔する」「再建への法律の壁」「過疎地の災害」
そして、「どうして復旧が進まないのか」
そんな事お話しできればと思ってます。

僕個人の考えは、もし中津川市でおきたら80%は壊滅するだろうし、孤立がものすごい箇所で発生すると思ってます。
みなさんが最大限に想像する100倍の事がおきる。そして決して元には戻らない。

言いたいことが沢山ありすぎて、9月におきた「令和6年奥能登豪雨」もそうです。
僕の実家も地区も甚大な被害となりました。これが地震被害よりひどい、酷い、心がやられました。
なので、数回にわけてお話ししますね。

最後に、僕の実家の地震直後の写真と、近隣被害を。
地震直後手付かずの実家

閉ざされた避難所への道。うねるアスファルト。

傾いた電柱、垂れ下がる電線。

倒壊した実家のお寺

崩落した有料道路「のと里山海道」現在もそのまま

もう復旧もできない道、トンネル。

そして、決意した事。
元通りにはならないけど、負けるわけにはいかないと誓って建てた看板